東陽寺来由
当山は、与楽山東陽寺と号し、建福寺末で、本尊は延命地蔵菩薩である。
開創次第は不詳なるも、昭和五年刊行の四日市教育委員会編纂になる「四日市史」によれば、曹洞宗総持寺末の建福寺内に十二塔司あり。その内の一つにして洞養寺、東陽院と称するも、のちには東陽寺となり、境内二百三十九坪を有し、寺内には鎮守堂(天保時代の建築)祖師堂(大正二年の建築)大黒天堂(大黒天木像で古くより伝来する)等の堂宇が建ち並んでいたという。
開山は、建福十三世荺溪慶洪大和尚、開基は義捜慶忠大和尚で人心の荒廃を是正せんとする大願心により、文明年中(一四六九〜一四八六)の開創と伝えられ、本堂は、昭和三年四月三日に落慶しているが(以上前記四日市史による)昭和二十年六月十八日未明の四日市空襲により、堂宇悉く烏有に帰している。
その後、十二世寺族道林慧照により法燈が護持せられ、その間女人講の寒行により再建準備資金を積み立てる。
又、再建準備中、梅花観音御出現され、昭和四十八年十二月一日三重梅花観音霊場第五九番札所となる。
そして昭和五十二年五月一日、本堂が再建された。
本尊の延命地蔵菩薩、毘沙門天、豊川吒枳尼真天(明治十六年勧請)木造三体、不動明王等、鋳物二体は戦禍をのがれ、現本堂に安置されている。
また、戦前の大師堂信者により、昭和三十年頃に弘法大師尊像を奉安し、町内有志により稲荷堂(正一位伏見稲荷大明神)も再建される。
戦前には女人講、参福講等ありて祈祷寺として隆盛を極めた。特に小児の虫封じ祈願者が多く、参詣に訪れたと伝えられている。
ここに、当山の来歴を述べ、後世に伝えんものなり。
昭和五十五年九月十日 十三世代 誌す
尚、昭和五十五年以前については、記録に残るものより年代順に書写したものである。
(當山十三世再中興大禅良雄大和尚 記)